2024年5月17日

前の日記から364日も経ってしまった! 一年前に始めたベランダ園芸はじわじわと拡大中で、今は朝顔を育て始めている。5月の頭、とても暑い日の朝に種を植えて、そこから急に気温の低い日が続いたのであわやお釈迦かと思ったけれど、1週間後に4つとも、せーので小さい芽を出した。 何かを期待することがこの頃難しいと感じているのだけど、この間の朝顔に対する気持ちはいたって単純で、よかった。毎朝起き抜けにベランダを覗いては楽しみにして、いつまでも出てこないからがっかりして、かと思いきや出てきて驚き、小躍りして。

こないだ買った『現代思想入門』を読んでいたらドゥルーズの章で「差異」という言葉が出てきたので、オッと思った。前の日記でいっていたのはこの概念のことですか?「同一性よりも手前においてさまざまな方向に多種多様なシーソーが揺れ動いている」、そういう微細で多様なダイナミズムのことを差異と呼ぶ……? 差異の実践、となると、よりわからない。ある特定の他者と同じになろうとして、もしくは異なろうとして努力しているときに、どこかで自分を俯瞰している自分が「的外れだなあ」と思う瞬間というのは身に覚えがあるけど、これは関係あるんだろうか。うーん。

 

話は変わるけど、昨日の仕事終わり、山下敦弘監督の『水深0メートルから』を見に行った。徳島のある高校の、水のないプールが舞台の映画で、大半のシーンがプールの底で完結する。高校演劇の脚本が元になっていて、ミニマムなしつらえや会話主体の展開に、演劇の色が濃く残っている。

映画自体は好きになれなかったが、色んな記憶が刺激された。特に強烈に思い出したのは、大学に入った友人たちが、中高6年間の部活とは別のことをするサークルに入って、続けてきたスポーツや音楽や演劇を中断してしまうと知った時の寂しさだった。簡単でわかりやすいラベルで他者を判断していたから、ラベルが人そのものみたいになってしまって、貼り替えられると困ったんだと思う。自分だけは見た目も好きなものも嫌いなものも、できるだけ同じでいてやろうと思った。数年経って再会しても私と見分けて欲しかった。

最近、水泳を習おうと思いつき、この間の火曜日、スポーツクラブに入会申し込みをした。この25年間カナヅチがほとんどアイデンティティのようになっていて、中学校も水泳の授業がないという噂のところに進学したし、実際小6以降一度もプールに入っていない。自分のことを得意なことやできないこと、好きなものと嫌いなものの束のように捉えたままでは思いつかなかったなーと思う。てか、単に体育の授業の苦痛さを忘れたというのも確実に、あります。25歳10ヶ月からの水泳入門、平泳ぎができるようになるまでは続けるつもりでいる。

これは日記なのでしょうか?

 

最近、人や世界を変えることができないと本格的に分かってきた。そんなことできると思ってるのは、物を見る解像度が低いからだと大学からの友人に言われた。人や世界を変えたいと漠然と思うことは、他人のせいにすることと似てるわけで、本気で変えようとすると、ひっくり返るイメージじゃなくて、ジワジワのイメージで、そう、それは植物の根みたいに、それが最近、身体に染み込んできた。

他者(人以外も)から言われる、既存の枠組みに合ってるか合ってないか、自分の身の丈に合ってるか合ってないかとかの話に対して、僕は本気でそこに抗うつもりでいて、その方法を自分で見つけて実践したいと思ってる。けどそれは、今の自分が嫌とかそういうんじゃなくて、何だろう、はみ出したいとかともなんか違うくて、こう、絶対になりたいみたいな欲望によって動かされてる。絶対になりたいと思ってる。でも、なるって言ってるけど、それは言ってるだけで、なるじゃなくて、絶対だろって感じで、僕は絶対なんだ、絶対になるも何も絶対なんだって!みたいな。

絶対になるためのヒントとして、差異を使おうと今は思ってる。じぁ、差異って何って話だけど、比較や対立を超越することで、その概念を元にした実践は何なのか探ってる。差異は概念だから、現実に起きた場合、僕はこれを状態と言っている。つまり、差異の概念を利用して状態になれと思ってる。

けど、差異の概念は分かるけど、実際に自分が比較や対立から抜けるのは無理だと思う、それを飛び越えるみたいなのは、状態も何もかも無くなることだから、そうじゃないやり方があると思ってる。そのやり方として比較や対立を同時に持つこと、持てるだけ比較や対立を持つことで、そこに引っ張り合いやせめぎ合いが生じて、自ずと状態になるんじゃないかと考えてる。

それを自らの生活である程度、実践してみたいと思ってる。生活の範囲だと、それこそ、植物を育てるのは、比較や対立を持つことだと思う。育ててみるキッカケはデスクのおじさんだったかもしれないが、その背後には、予期せぬものへの好奇心と深い部分での抵抗、それと腹減ったーくらいの単純な理由を感じました。あ、あと、紹介された本、『人類堆肥化計画』まだ読んでません!すみません、読みたいので読みます!

 

日記を書こうと思って、電車の中でとりあえずスマホに書き殴ったのが上の文章です。改めてこれって日記なんでしょうか?日記って生活の記録じゃなかったけ、この文章を一応、日記として書いたって事は、僕の中ではこのような事は生活の一部なんだなと思う。なんと面倒臭いことが生活に入り込んでいることやら。生活には、その日見たもの、その日食べたもの、その日出会った人など、様々な出来事が広がっているというのに、それこそ植物だって人間の生活飛び越えて、というか人間以前から広がっているのに、そんなことを思っていると、こんなのは日記じゃないと思い、なかなか投稿できなかったです。けど、ずっと日記じゃないかどうかを悩んでいても仕方ないので、投げてみることにしました。別にこれが日記であるかは重要じゃなく、これを踏まえて、また次書ければいいと思ってます。その連動の中に、とりあえず投げてみることがあるんだと、今、思いました。斜め下から投げる二投目。奇妙な回転の掛かった、実際に投げられる文章の球。

2023年5月18日(木)

我が家のベランダ園芸の夜明けが近い。始まりは去年の五月ごろ、隣のデスクのじいさんに木の苗をもらったことだった。なんでも住んでいるアパートがじきに解体するので、引っ越す前に家で育てている数百の植木を処分する必要があり、「別に捨てればいい話だけども」、身近な人間に声をかけて配っているようだった。他の社員もそれ以前からじいさんに植物を押し付けられ、それぞれ育てたり枯らしたりしていて、新しくもらうのはちょっと、という顔であいまいに微笑んでいた。それで入社したての私に御鉢が回ってきたということ。

 

どんなのがいいんだオメーと聞かれたので「なるべく丈夫でガサツなやつがいいですね」と答えた。翌朝出社するなり無言で私の席の足元にレジ袋が置かれ、何かと思って見てみたら、小さい緑が三つがさっと突っ込まれていた。三つもくれるんだあと思って、うきうきで自転車のハンドルに引っ掛けて持ち帰ったけどもしかしたら、三つも押し付けられたのかも知れなかった。

 

元々5年ほどバイトしていた会社にするすると吸い込まれるように就職した。シフトの頻度と覚えることが増えた他はあんまり変わらない暮らしの中に、いきなり木が入り込んできたから、嬉しかった。生き物を自分で育てるのは初めてだったし、家の中(つってもベランダだけど)に自分とは違う生き物がいて、気にかける生活というのは、手軽に生きている意義を感じられてよかった。……的な感慨は三日で薄れ、それから何度も水をやり忘れたが、後から増えたもう一本含めて、余裕でぴんぴん、わさわさしている。リクエストちゃんと聞いてくれてたらしいのだ。

 

そいつらのうちの一本(メグスリノキというらしい)が一年たって随分大きく育ち、元々植えられていた容器が窮屈そうになってきたので、先日大きめの植木鉢に植え替えた。ホームセンターの園芸コーナーって初めて行ったけど、土が綺麗に包装されて、価格がつけられ、ずらりと並んでいる状況は、まじまじ見ていると何か脳みそが解けて行く感じがする。一番安くて無難そうな土2kg250円)を買ったら、袋の表側に「工場で作った土です」と書いてあり、なぜか誇らしげだった。

 

その後会った友達が、ひまわりの種を持て余していたので譲ってもらい、新しいプランターを買って、余ってた土に蒔いてみた。それがさっき。いつか園芸を始めることは何となく予感していたけど、もっと年取ってからだと思ってた。ついでにブナの木も別の鉢に植え替えて、まだせいぜい10cmほどの体長だけど、10年もしたら私より背が高くなって、100年もしたらそりかえって見上げるほどになり、抱きついても腕が回りきらなくなるのか。古い街並みのロマンとか、あまりピンと来ない質だが、そういう時間の過ぎ方なら分かる。というか、いつまでこの狭いベランダで育てられるのか。育った先はどうしたらいいですか?と以前じいさんに聞いたら、「そんなの枯らしゃーいいんだよ」と言われ、かえって責任を感じてしまった。このままどんどん緑を増やしまくって、部屋ごと森になるのがいいか。私が我が物顔で占拠しているこの空間が、そもそも私一人に領有されることなどあり得なかったことを思い出して、私と草木と、それに群がる虫やら何やらの関係が、育てるとか生かすとか殺すとかの関係が、めちゃくちゃに撹乱してしまうのがいいと思う。行く行くは『人類堆肥化計画』に紹介されている『堆肥男』みたいになりたい。のか?(『堆肥男』は読んでないけど、『人類〜』は面白かったからおすすめです。あるいはもう読みましたか?「地上にいるということはそのまま、地球という広大な堆肥盛りの最上層にいることだ。いずれ跡形もなく解体され、雑多な草たちに養分として吸い上げられるだろう。わたしがわたしでなくなること、そしてさまざまなものになることは、究極の自由と言えるだろう」という一節に、読んだ時大きな感銘を受けた。)

 

難しいこと考えずに書こうと思ってそうしたら案の定日記になり…下から投げる一投目。久しぶりに文章を書きました。

f:id:suiriku_ryoyo:20230528204301j:image