前の日記から364日も経ってしまった! 一年前に始めたベランダ園芸はじわじわと拡大中で、今は朝顔を育て始めている。5月の頭、とても暑い日の朝に種を植えて、そこから急に気温の低い日が続いたのであわやお釈迦かと思ったけれど、1週間後に4つとも、せーので小さい芽を出した。 何かを期待することがこの頃難しいと感じているのだけど、この間の朝顔に対する気持ちはいたって単純で、よかった。毎朝起き抜けにベランダを覗いては楽しみにして、いつまでも出てこないからがっかりして、かと思いきや出てきて驚き、小躍りして。
こないだ買った『現代思想入門』を読んでいたらドゥルーズの章で「差異」という言葉が出てきたので、オッと思った。前の日記でいっていたのはこの概念のことですか?「同一性よりも手前においてさまざまな方向に多種多様なシーソーが揺れ動いている」、そういう微細で多様なダイナミズムのことを差異と呼ぶ……? 差異の実践、となると、よりわからない。ある特定の他者と同じになろうとして、もしくは異なろうとして努力しているときに、どこかで自分を俯瞰している自分が「的外れだなあ」と思う瞬間というのは身に覚えがあるけど、これは関係あるんだろうか。うーん。
話は変わるけど、昨日の仕事終わり、山下敦弘監督の『水深0メートルから』を見に行った。徳島のある高校の、水のないプールが舞台の映画で、大半のシーンがプールの底で完結する。高校演劇の脚本が元になっていて、ミニマムなしつらえや会話主体の展開に、演劇の色が濃く残っている。
映画自体は好きになれなかったが、色んな記憶が刺激された。特に強烈に思い出したのは、大学に入った友人たちが、中高6年間の部活とは別のことをするサークルに入って、続けてきたスポーツや音楽や演劇を中断してしまうと知った時の寂しさだった。簡単でわかりやすいラベルで他者を判断していたから、ラベルが人そのものみたいになってしまって、貼り替えられると困ったんだと思う。自分だけは見た目も好きなものも嫌いなものも、できるだけ同じでいてやろうと思った。数年経って再会しても私と見分けて欲しかった。
最近、水泳を習おうと思いつき、この間の火曜日、スポーツクラブに入会申し込みをした。この25年間カナヅチがほとんどアイデンティティのようになっていて、中学校も水泳の授業がないという噂のところに進学したし、実際小6以降一度もプールに入っていない。自分のことを得意なことやできないこと、好きなものと嫌いなものの束のように捉えたままでは思いつかなかったなーと思う。てか、単に体育の授業の苦痛さを忘れたというのも確実に、あります。25歳10ヶ月からの水泳入門、平泳ぎができるようになるまでは続けるつもりでいる。