これは日記なのでしょうか?

 

最近、人や世界を変えることができないと本格的に分かってきた。そんなことできると思ってるのは、物を見る解像度が低いからだと大学からの友人に言われた。人や世界を変えたいと漠然と思うことは、他人のせいにすることと似てるわけで、本気で変えようとすると、ひっくり返るイメージじゃなくて、ジワジワのイメージで、そう、それは植物の根みたいに、それが最近、身体に染み込んできた。

他者(人以外も)から言われる、既存の枠組みに合ってるか合ってないか、自分の身の丈に合ってるか合ってないかとかの話に対して、僕は本気でそこに抗うつもりでいて、その方法を自分で見つけて実践したいと思ってる。けどそれは、今の自分が嫌とかそういうんじゃなくて、何だろう、はみ出したいとかともなんか違うくて、こう、絶対になりたいみたいな欲望によって動かされてる。絶対になりたいと思ってる。でも、なるって言ってるけど、それは言ってるだけで、なるじゃなくて、絶対だろって感じで、僕は絶対なんだ、絶対になるも何も絶対なんだって!みたいな。

絶対になるためのヒントとして、差異を使おうと今は思ってる。じぁ、差異って何って話だけど、比較や対立を超越することで、その概念を元にした実践は何なのか探ってる。差異は概念だから、現実に起きた場合、僕はこれを状態と言っている。つまり、差異の概念を利用して状態になれと思ってる。

けど、差異の概念は分かるけど、実際に自分が比較や対立から抜けるのは無理だと思う、それを飛び越えるみたいなのは、状態も何もかも無くなることだから、そうじゃないやり方があると思ってる。そのやり方として比較や対立を同時に持つこと、持てるだけ比較や対立を持つことで、そこに引っ張り合いやせめぎ合いが生じて、自ずと状態になるんじゃないかと考えてる。

それを自らの生活である程度、実践してみたいと思ってる。生活の範囲だと、それこそ、植物を育てるのは、比較や対立を持つことだと思う。育ててみるキッカケはデスクのおじさんだったかもしれないが、その背後には、予期せぬものへの好奇心と深い部分での抵抗、それと腹減ったーくらいの単純な理由を感じました。あ、あと、紹介された本、『人類堆肥化計画』まだ読んでません!すみません、読みたいので読みます!

 

日記を書こうと思って、電車の中でとりあえずスマホに書き殴ったのが上の文章です。改めてこれって日記なんでしょうか?日記って生活の記録じゃなかったけ、この文章を一応、日記として書いたって事は、僕の中ではこのような事は生活の一部なんだなと思う。なんと面倒臭いことが生活に入り込んでいることやら。生活には、その日見たもの、その日食べたもの、その日出会った人など、様々な出来事が広がっているというのに、それこそ植物だって人間の生活飛び越えて、というか人間以前から広がっているのに、そんなことを思っていると、こんなのは日記じゃないと思い、なかなか投稿できなかったです。けど、ずっと日記じゃないかどうかを悩んでいても仕方ないので、投げてみることにしました。別にこれが日記であるかは重要じゃなく、これを踏まえて、また次書ければいいと思ってます。その連動の中に、とりあえず投げてみることがあるんだと、今、思いました。斜め下から投げる二投目。奇妙な回転の掛かった、実際に投げられる文章の球。